


世界への旅立ちを支えた港湾都市 横浜の現在

蚕に秘められた未知の力 蚕糸科学技術研究所の未来

およそ5千年前に中国で始まった養蚕は、約2千年前には日本に伝わり、わたしたち人類は、長い年月にわたってその恩恵を受けて暮らしてきた。主に着物やドレス、スカーフなど、衣類を中心に使われてきた絹は、現在、大きな転換点を迎えようとしている。遺伝子組み換えカイコを利用した高機能繊維、再生医療の素材や医薬品の原料、そして食分野への進出。“天の虫”と書く蚕は、その名の通り、わたしたちの未来を大きく変えるポテンシャルを秘めている。
2012年まで日本地図には桑畑の記号があり、わざわざ他の畑と分けて表記する必要があるほど、かつては養蚕農家が多かったことを示している。ピーク時の1929年には221万戸もあった養蚕農家は、2018年にはわずか293戸に激減。残念なことに、絹を生産する多くの企業が、海外から輸入された繭を原料に製品化している。地球温暖化による大規模な気候変動が世界的な問題になっているが、実は、桑はCO2の排出抑制にも効果的な植物。1haの桑畑で、年間約50,000kgの二酸化炭素を吸収し、約36,000kgの酸素を放出すると試算されている。蚕が最初に吐きだす太くて硬い「きびそ」を、他の繊維と合わせて味わいのある織物に仕上げる試みをはじめ、従来は製糸の過程で捨てられていた部分の再利用も進んでいるという。かつての日本のように多くの桑を育て、蚕の恵みを余すことなく活用することは、SDGsな未来へとつながっている。
衣料から医療へ。いま現在、国産絹にもっとも注目しているのは医療分野ではないだろうか。丈夫で柔軟性があり、生体安全性・生体親和性が高いことから、昔から手術用縫合糸として使われてきた絹を、「医療用ガーゼ」「人工血管」や「神経再生用チューブ」に活用する研究が進んでいる。人工血管の研究では、移植後に絹が生体組織に置き換わる“リモデリング”が起こる可能性がわかり、それが実現すれば、年月が経過しても再手術が不要になるなど、再生医療にとって画期的な進歩につながる。
絹を利用した「角膜」や「軟骨」の再生医療、「抗血液凝固剤」といった医薬品への応用など、さまざまな可能性を秘めた自然の恩恵。「犬や猫用のインターフェロン」は既に製品化されているが、医療分野において、蚕や絹の活用は今後も広がっていくだろう。
蚕が吐き出す糸の成分フィブロインは、10数種類のアミノ酸で構成されるタンパク質であることから、「食べるシルク」として、数多くの栄養補助食品が販売されている。コラーゲンや天然保湿因子の原料になるグリシンやアラニン、表皮や爪・髪をつくるシステインの基でもあるセリンなど、優れたアミノ酸が豊富なフィブロイン。蚕糸の応用ではスキンケアの開発が進んでいたが、今後は「美容と健康に役立つ食品」としての活用が進んでいくことが期待されている。
飼育が簡単な蚕は、孵化してから25日で体重が約1万倍に増える「超高速タンパク質生産工場」でもある。加工して肉の代替などに利用する「昆虫食」の面からも注目される蚕は、既にスペースシャトルに乗せられ、宇宙放射線や微小重力の影響を探る実験にも利用されているという。近い将来、宇宙旅行が可能になった場合、火星に行くには往復2年半〜3年かかるといわれている。その間の食べ物としては保存食が中心になるが、蚕を食用にできれば、新鮮な動物性タンパク質が摂取できる。卵を宇宙船で運び、人工飼料で25日飼育すると、大量に収穫できる効率の良い高タンパク食材。地球規模の食糧危機が懸念される未来において、宇宙に限らず、普段の食用としてのニーズが高まることも考えられる。
大さん橋近くにある「シルク博物館」の一角には、「シルクの新たな可能性」のコーナーがある。医療分野や遺伝子組み換えカイコの応用、宇宙旅行の食事メニューなど、今まで知らなかった蚕と絹の新たな一面に触れることができる。ここを訪れた子どもたちが、5千年以上も人類とともに歩んできた蚕と絹について考え、大きな夢を育み、人と蚕が共生する新たな未来を切り拓いてくれるだろう。
参考文献:ヨコハマ開港とシルク(シルク博物館)
取材・文 嶋田 桂子 KEIKO SHIMADA
コピーライター・ライター。文化服装学院 ファッション・エディター科卒業後、広告制作会社勤務を経てフリーランスになり、多くの広告媒体に携わる。得意分野はファッション、ビューティ、百貨店、ギフト、フード、会社案内などで、取材・インタビューも手がける。「26の物語で紡ぐ日本の絹」の執筆も担当。