


世界への旅立ちを支えた港湾都市 横浜の現在

蚕に秘められた未知の力 蚕糸科学技術研究所の未来

日本にも「シルクロード(絹の道)」があるのをご存じだろうか。安曇野から岡谷・諏訪・駒ヶ根を経て八王子へ。小千谷から桐生、富岡を経て八王子へ。八王子から町田を経由する浜街道。いずれも終着点は横浜で、日本各地の養蚕地や製糸場から横浜に集積された生糸は、現在の「横浜赤レンガ倉庫」などに保管され、遠くヨーロッパやアメリカへ向けて出航して行った。1859年の横浜開港と同時に爆発的な隆盛を極めた生糸貿易は、長年にわたって日本を代表する輸出品として不動の地位を確立。日本に莫大な外貨をもたらし、近代化を力強く支えてきた横浜の絹物語を振り返る。
ヨーロッパで流行していた蚕の伝染病と中国の生糸の輸出停滞によって、1859年の横浜開港は待ち望まれていたタイミングで訪れ、生糸を求める外国の商社が殺到したという。養蚕や製糸の技術が進み、良質な生糸を量産できる体制が整っていたこと。日本各地の生産地から横浜への輸送の仕組みが発達したこと。数々の条件が重なる好機で迎えた横浜開港は生糸貿易の隆盛を生み、街には生糸関連の商店が立ち並んだ。海外の商社が横浜に開設されて外国人居留地が誕生し、そこから華やかな欧米文化や風習が伝わり、日本初の食べ物やカルチャーが横浜から日本各地へと広がっていった。
横浜開港から生糸貿易が発展し、生糸が高額で取り引きされるようになると、一攫千金を夢みて日本各地から商人たちが集まってきた。本町通りや弁天通りには、開港から明治時代にかけて「生糸売込商」が店を構え、今なおデローロ商会の外壁が残る「シルク通り」には、明治から昭和にかけて生糸・絹関連の商社が軒を連ねていた。夢破れて故郷に引き上げる者も多いなか、成功した「生糸売込商人」には、上州の中居屋重兵衛、渋沢栄一の従兄弟である渋沢喜作、横浜を代表する実業家となる原富太郎などがいた。生糸貿易が大きな成功への王道だった時代、半農半漁の村から国際的な港町へと発展していった横浜は、先進国を目指して邁進する日本の近代化と軌を一にするものだった。
1872年、日本初の鉄道が横浜ー新橋間を結んだのに続き、1884年の高崎線、1887年の東北線、1889年の甲武鉄道(現中央線)新宿ー八王子間の開通など、いずれも養蚕地帯に敷設され、生糸の輸送を想定した鉄道だった。それほどまでに、生糸輸出による外貨獲得は重要な国策であり、日本のインフラにまで大きな影響を与えたといえるだろう。現在の中央線や東海道線は、養蚕地や織物の産地と横浜を結ぶ「絹の道」と重なる。
開港以来、目覚ましい発展を遂げてきた横浜の蚕糸業にも、数々の困難が立ちはだかった。生糸が輸出品第1位を独走していた1860〜70年代、蚕種が産み付けられた「蚕卵紙」が、生糸に次ぐ輸出品第2位となったことがあった。ところが、生産過剰によって価値が暴落し、投機的な蚕種取引をしていた横浜の商人や蚕種製造者にとって大きな打撃に。その後も海外の需要を上回る「蚕卵紙」が横浜に持ち込まれたため、1877年、現在の横浜公園で48万枚余りの蚕卵紙を焼却する事態に陥った。この事件はNHKの大河ドラマ「青天を衝け」でも描かれ、横浜の蚕糸業にとってショッキングな出来事として記憶に刻まれた。
1923年9月1日に起こった関東大震災では、道路や鉄道の寸断、港湾の破壊など横浜も壊滅的な被害を受け、市中にあった生糸も大量に消失し、巨額の損害をこうむった。開港以来、生糸貿易は横浜が独占していたが、生糸輸出港を神戸に移す運動が始まり、これが実現すると横浜の蚕糸貿易にとって死活問題となる危機に直面。その一大事に、原富太郎(原三渓)が理事長となって「横浜貿易復興会」を立ち上げ、震災からわずか17日後には生糸取引を再開したという。製糸・生糸貿易で財を成し、「富岡製糸場」も36年にわたって所有していた原富太郎が築いたのが、横浜を代表する名勝「三溪園」で、彼は広大な敷地に京都や鎌倉から数々の歴史的建造物を移築した。生糸貿易で築いた富は、ゆたかな自然の中で日本文化に触れ合える庭園として、今もなお多くの人々を楽しませている。
開港から160年余り、“絹の港”として世界に名を馳せ、蚕糸業に導かれて発展した横浜は、産業・商業・観光が一体となった港湾都市として現在も輝いている。
参考文献:ヨコハマ開港とシルク(シルク博物館)
取材・文 嶋田 桂子 KEIKO SHIMADA
コピーライター・ライター。文化服装学院 ファッション・エディター科卒業後、広告制作会社勤務を経てフリーランスになり、多くの広告媒体に携わる。得意分野はファッション、ビューティ、百貨店、ギフト、フード、会社案内などで、取材・インタビューも手がける。「26の物語で紡ぐ日本の絹」の執筆も担当。