日本の絹を「知る」「学ぶ」「楽しむ」総合情報サイト

世界への旅立ちを支えた港湾都市 横浜の現在

横浜開港150周年を記念して整備された「象の鼻パーク」を歩くと、豪華客船が停泊する大さん橋から横浜三塔、横浜赤レンガ倉庫、みなとみらい地区まで、港町の歴史を物語る景観が見渡せる。1859年に開港するまで半農半漁ののどかな村だった横浜。開港当時の発展を支えてきたのは、まぎれもなく「生糸」だった。港湾貿易によって大都市へと変貌した横浜に数多く残る、絹ゆかりの地をたどった。

横浜を象徴する景色が色鮮やかに描かれた「横浜スカーフ」は、世界最高水準の製版、染色、縫製の技術で作られた横浜オリジナルのシルク製品。生糸貿易によって発展した地場産業から生まれたご当地アイテムとして愛され、毎年新しい図柄が発表されている。

1859年、横浜開港をきっかけに日本の蚕糸業は飛躍的な発展を遂げる。ヨーロッパで流行していた蚕の伝染病、中国の貿易停止などを追い風に日本の生糸を世界が求め、80年にわたって輸出額のトップを独走し、そのほとんどが横浜を出港して欧米諸国へと旅立って行った。山下公園のシンボルとなっている「氷川丸」も生糸を運んでいた時期があり、船底にはシルク専用の防水構造の倉庫が設けられ、戦前には大量の生糸を積んで米国へ向けて航行していたという。

山下公園から歩いて10分ほどの横浜第二合同庁舎の正面入り口には、ちょっと不思議な図案の柱頭飾りがある。蛾をモチーフにした盾飾りに、水引と松・桑・月桂樹を加えた図案は、かつてここが「横浜生糸検査所」だった名残を留めている。

生糸が輸出品として成功を収めると、良質なものばかりではなく、粗製乱造の生糸も目立つようになっていった。それを防ぐために設立されたのが「横浜生糸検査所」で、震災復興期の建築として最大規模を誇った旧建物は、横浜ゆかりの建築家、遠藤於菟(えんどうおと)最晩年の作品。赤レンガ作りの壮麗な建築は、「キーケン」と呼ばれて横浜市民に親しまれていた。1993年に高層ビルに建て替える際に創建当時の状態に復元され、遠藤式ルネッサンスの特徴を示す柱頭飾りも往時の姿となって復活し、現在では、横浜市認定歴史的建造物として、歴史や建築に興味を持つ人が訪れる名所となっている。

横浜開港百周年記念事業として1959 年に開館した「シルク博物館」は、開港当初に生糸貿易によって栄えた旧居留地、英国商社ジャーディン・マセソン商会(英一番館)のあった地に建てられた。養蚕・製糸・染織など〈絹ができるまで〉の過程を学び、歴史を彩ってきた絹を再現した貴重な装束も鑑賞できる博物館。糸繰りやはた織りが体験できるワークショップが開催され、〈手作り真綿〉や〈手紬糸作り〉など、目の前で職人技を見られるデモンストレーションも人気だという。現在では希少になってしまった絹づくりの一端に触れ、子どもたちも自らの手で体験できる場として、横浜の地で絹の魅力を発信し続けている。

日本大通り駅から元町方面に向かう山下町の「シルク通り」は、明治から昭和にかけて、シーベルヘグナー商会、バヴィエル商会、藤沢商店など、生糸・絹物関連の商社が軒を連ねていた歴史の舞台。デローロ商会の建物は外壁が残され、横浜市地域有形文化財に指定されている。馬車道方面の本町通りや弁天通りには、開港から明治まで多くの生糸売込商が店を構え、跡地に残る「生糸貿易省 中居屋重兵衛店跡」の記念碑が、往時のにぎわいを伝えている。

開港当時の姿を残すレンガ造りの建造物や数多くの石碑が物語る、港町の160年。世代を超えた観光客で沸きかえる横浜を歩いていると、生糸と絹の恩恵を受けて大きく発展してきた歴史が生きいきと甦ってくる。


取材・文 嶋田 桂子  KEIKO SHIMADA

コピーライター・ライター。文化服装学院 ファッション・エディター科卒業後、広告制作会社勤務を経てフリーランスになり、多くの広告媒体に携わる。得意分野はファッション、ビューティ、百貨店、ギフト、フード、会社案内などで、取材・インタビューも手がける。「26の物語で紡ぐ日本の絹」の執筆も担当。