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蚕に秘められた未知の力 蚕糸科学技術研究所の未来

きもの文化の衰退と外国産の安価な原料、化学繊維の品質の向上などの影響を受け、蚕糸業が縮小しつつある現在。伝統文化として維持継承していくだけではなく、新たな分野への進出や画期的な技術の開発、それを応用する産業などが求められている。2つの研究所が合併し、「蚕種から絹織物まで一体となった研究」を掲げる蚕糸科学技術研究所への期待は、未来へ向けてますます高まっている。

本館-研究棟:画像提供 蚕糸科学技術研究所

「歌の文句じゃないけれど、オンリーワンになる必要があると思います」。国産シルクの未来についてうかがうと、所長の新保さんはそんな言葉を口にした。生産量や輸出量に関しては、中国、インドなどには到底かなわない。その価値を発揮できるのは、国産シルクにしかない特長を伸ばし、それを活用していくこと。「服飾の先生と話したとき、洋装であればハリのある生地など、目的に合致した糸が求められるとうかがい、そういったニーズに応えていくためには、蚕の品種から考えていかなければならないと思いました」。この蚕、この繭があったからこそ生まれる、唯一無二の素材の味わい。希少価値の高い国産シルクがファッション分野で生き残る道は、“作り手とのコラボレーション”にあるのかもしれない。

蚕糸業全体が岐路に立つ現在、養蚕における新技術として、食品添加物を使った環境や生物に配慮した蚕室洗浄剤の開発など、時代に合わせた改革も注目を集めている。脱ホルマリンとしてスタートした安全な洗浄剤開発によって、蚕を病気から守りながら、周辺の環境にも影響を与えない飼育環境が整った。SDGsの観点からも、持続可能な蚕糸業を構築していくことは、研究所に求められる使命といえるだろう。

遺伝子組換えカイコ飼育の様子:画像提供 蚕糸科学技術研究所

現在、そして未来に向けて最も注目を集めているのが、遺伝子組み換え蚕を用いた臨床検査薬。測定したい物質のマーカー(標準)を必要とする検査薬は、従来は血液などの生体試料から製造されてきたため、多量の血液など原料の調達が困難であり、さらに倫理的な問題も大きかった。それが近年の遺伝子組み換え技術の進歩によって、蚕を利用して主原料となるタンパク質に置き換えることが可能となり、骨粗鬆症の臨床検査薬の開発に成功。2012年の市販化以降、国内外の検査センターを中心に急速に普及し、さらに幅広く人や動物の医薬品への展開が期待されている。この開発により、性能面でも倫理面でも優良な国産技術体系として、蚕の新たな可能性に注目が集まっている。

日本学術会議による「第24期 学術の大型研究計画に関するマスタープラン」(2020年)では広い学術分野から約160件の大型研究計画が採択され、その中から重点大型研究計画として選ばれた31件の中に、農学分野で唯一「カイコをモデルとした昆虫デザイン解析拠点と新産業創生ネットワーク形成」というプランがある。小さな体の中に驚異的なタンパク質生産能力を備え、有史以来、繊維資源として利用され、近年では医薬原料や新素材として急速に産業化が進む蚕。その蚕をモデルに、多様な昆虫機能の原理を基礎から解明し、それらを産業利用に展開しようと提示するプランである。新興感染症の診断薬やワクチンの迅速な開発など、社会的に重要な課題に率先して取り組むとされ、まさに時代が求める研究といえるだろう。

日本では3世紀頃から始まった養蚕は、古代において絹布が女性の貢物であったことから、当時でも製糸・機織まで技術が発達していたと考えられる。衣料品や調度品としての長い歴史から、外貨獲得の輸出品、医療分野、バイオ化学を応用した新素材へと、何千年にもわたって日本を支えてきたかけがえのない自然の恵み。「蚕はさまざまな魅力、まだ知られていない可能性を秘めた生物です」と新保さんが語るように、未来の私たちも、きっと蚕の恩恵を受けて生きているはずだ。


蚕糸科学技術研究所

〒300-0324 茨城県稲敷郡阿見町飯倉1053
Tel.029-889-1771
■ホームページ http://www.silk.or.jp/


取材・文 嶋田 桂子  KEIKO SHIMADA

コピーライター・ライター。文化服装学院 ファッション・エディター科卒業後、広告制作会社勤務を経てフリーランスになり、多くの広告媒体に携わる。得意分野はファッション、ビューティ、百貨店、ギフト、フード、会社案内などで、取材・インタビューも手がける。「26の物語で紡ぐ日本の絹」の執筆も担当。