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世界を変えた生糸 富岡製糸場の過去

“日本資本主義の父”と呼ばれ、2024年に発行される新一万円札に肖像画が採用される渋沢栄一が設立に尽力した富岡製糸場。その圧倒的なスケールの工場は、外貨獲得とともに、日本の近代化を推し進めることを目的とした明治政府のモデル事業でもあった。生糸の生産にとどまらず、さまざまな側面で文明開化を象徴する唯一無二の文化財について、その歩みを振り返る。

木骨に煉瓦の壁と、柱のない広々とした空間。江戸末期から明治にかけて活躍した一曜斎國輝が描いた浮世絵「上州富岡製糸の図」には、創業当初の繰糸所が描かれ、活気ある製糸の現場が鮮やかに甦ってくる。

江戸末期から明治の初めにかけて日本の輸出品の花形だった生糸も、輸出量が増えるにつれて、粗悪品や品質のバラつきが取引先のヨーロッパで問題視されるようになった。生糸の品質の向上を図る必要に迫られた明治政府は、製糸工場設立にあたって3つの考え方を掲げた。①洋式の製糸技術の導入。②外国人を指導者とすること。③全国から工女を募集し、伝習を終えた工女は出身地へ戻り、器械製糸の指導者とすること。その趣旨で選ばれたフランス人指導者ポール・ブリュナの計画書に基づき、フランスの製糸器械を導入し、官営模範器械製糸場の歴史が幕を開けた。

画像提供 富岡市

建造物としても当時の画期的な技術が導入され、主要な建物には、横須賀製鉄所と同じ「木骨煉瓦造」を採用。フランス人のオーギュスト・バスティアンが図面を引き、日本人の大工や職人によって建てられ、屋根は日本瓦で葺くなど、西洋と日本の技術をみごとに融合させた建築となった。大規模な「木骨煉瓦造」として現存するものでは最も古く、建築史としての価値も高い建造物となっている。

工場で製糸の仕事に携わったのは、主に若い女性たちであった。古来より糸や布は女性の仕事とされる伝統に加え、視力が良く、手先が器用で繊細な作業をこなせることがその理由とされる。明治の初め頃、女性の仕事は家業の手伝いか奉公先のお手伝いなどに限られ、工場という職場で働くことは考えも及ばないことであった。そこで、渋沢栄一の従兄であり初代場長となる尾高惇忠は、娘の勇を「第1号工女」として入場させ、それをきっかけに北海道から山口県まで、数多くの武家の子女たちも入場していった。工女たちは寮で共同生活をし、決まった時間内だけ工場で働き、週に1日の休みを楽しみ、工場内の学校で学ぶこともできた。長野県松代町出身の士族の娘で、富岡製糸場で伝習工女として技術を学び、地元の工場で技術指導者として活躍した和田英(旧姓横田)という女性の回想録が、「富岡日記」として出版されている。退屈でつまらない「繭選り」から「糸とり」へ移りたいと焦る様子、「糸とり」の技を高め、競うように生産量を増やしていく様など、工女たちのリアルな毎日が活きいきと描写されていて興味深い。地元の工場が完成して、全員で人力車を連ねて帰郷するとき、まるでパレードのように沿道に人が集まっていたという。歴史が大きく動いた時代、お家や地域の復興を目指し、国のモデル事業で最先端の修行を積んできた彼女たちに、地方都市がどれだけ期待していたかが伝わるエピソードだ。富岡製糸場は、女性が家業から一歩踏み出し、社会に進出する先駆けとなった歴史の舞台でもあった。

大正〜昭和初期の最盛期には1,000人近くの工女が働き、戦後の民営化を経て、自動繰糸によるさらに効率的な大量生産を実現し、1987年の操業停止まで、日本経済を支えてきた歴史的な文化財が、広大な敷地全体として残されていることの価値は図り知れない。日本が開発した生糸の大量生産技術は、かつて一部の特権階級のものであった絹を世界中の人々に広め、その生活や文化をさらに豊かに変えた。世界遺産となった富岡製糸場を訪れると、シルクで世界を切り拓いた歴史の大きなうねりを体感できる。


富岡製糸場

〒370-2316 群馬県富岡市富岡1−1
Tel.0274-67-0075
■開館時間 午前9:00〜午後4:30
■ホームページ http://www.tomioka-silk.jp/tomioka-silk-mill/


取材・文 嶋田 桂子  KEIKO SHIMADA

コピーライター・ライター。文化服装学院 ファッション・エディター科卒業後、広告制作会社勤務を経てフリーランスになり、多くの広告媒体に携わる。得意分野はファッション、ビューティ、百貨店、ギフト、フード、会社案内などで、取材・インタビューも手がける。「26の物語で紡ぐ日本の絹」の執筆も担当。