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日本とフランスを結ぶ絹の糸 富岡製糸場の現在

「富岡製糸場と絹産業遺産群」が世界遺産に登録され、一躍注目を集めた2014年から7年。政府の役人として設立に奔走した渋沢栄一がNHK大河ドラマ「青天を衝け」の主人公となり、再び注目を集める現在、コロナ禍の困難な一年半を経て、富岡製糸場がどんな変化を遂げているのか探った。

画像提供 富岡市

日本の近代化の象徴であった富岡製糸場の操業停止は1987年。当時の所有者だった片倉工業株式会社は、その後も広大な土地と各施設を所有し、大切に保存し続けた。その理由について、「創業当時、世界最大級の大規模製糸工場として絹産業を支えたこの施設に、深い想いがあったのではないでしょうか」と語るのは、富岡市役所 世界遺産観光部の岡野さん。製糸業が国の統制下にあるなかではパラシュートのためにも糸を生産していた第二次世界大戦を挟み、48年にわたって富岡製糸場と栄枯盛衰をともにしてきた片倉工業にとって、たとえ機械が動いていなくても、この製糸場が大切なものだったことが推察できる。

養蚕業が衰退し、製糸工場が姿を消しつつある2003年、富岡製糸場について、当時の群馬県知事 小寺弘之が「ユネスコ世界遺産登録するためのプロジェクト」を公表。その発言がターニングポイントとなり、文化財として未来へ残すための取り組みが始まった。さまざまなアプローチを重ねた結果、2005年7月に敷地全体が国の史跡となり、2006年7月には主な建造物が重要文化財に、そして遂に、2014年6月に世界文化遺産に登録。さらに同じ年の12月には、繰糸所・西置繭所・東置繭所の主要3棟が国宝に指定され、その価値がさらに高まった。

「富岡製糸場と絹産業遺産群」が世界遺産に登録された2014年、富岡市の養蚕農家はわずか12戸。世界遺産登録に沸き、見学者が133万人に達した明るいニュースの陰で、実は大きな危機が迫っていたことになる。富岡市では、養蚕業のシステムが生き続けているからこそ、富岡製糸場の産業遺産としての価値があると考え、新たなシルクブランドの構築を目指して協議会を設立。「日本の養蚕技術やシルク文化を次世代に継承する」ことをコンセプトに、「富岡シルク」のブランディングがスタートした。生産履歴を明確にし、作り手の顔が見える安心・安全なシルクであること。富岡製糸場の歴史を伝えるシルクであること。19世紀末のヨーロッパで高く評価されたクオリティを受け継ぐシルクであること。それらの条件を満たした優れた製品だけが、「富岡シルクブランド認証製品」として世に送り出される。一般製品に加え、毎年の公募で選ばれた企画が製品化され、「富岡シルク」の名を纏って、人々の暮らしを彩っていく。かつて日本の生糸が世界を席巻したように、“TOMIOKA SILK”は世界を目指すのにふさわしい品質を誇っている。

19世紀の半ば、ヨーロッパ全土で蚕の病が蔓延し、絹産業が盛んだったフランスのリヨンも大打撃を受けた。ヴェルサイユ宮殿にある絹の調度品はほぼリヨン産と言われ、現在でも使われているジャカード織機を生み出した絹の一大産地を襲った悲劇。その危機から救ったのが、病気に強い日本の蚕と生糸だった。日本から蚕と生糸を輸入したリヨンはみごとに復活を遂げ、豪華絢爛なオートクチュール文化を継承した。そして現在、高度な技は一流ブランドのスカーフやハイテク繊維に受け継がれ、芸術の街として発展を続けている。設立当初はフランスの技術者を招き、フランス式繰糸器を取り入れることで上質な絹の大規模生産に成功した富岡製糸場が、フランスの絹文化の救世主となった歴史の1ページ。生糸は、日本の近代化はもちろん、世界との関わりにも大きな役割を果たした。富岡製糸場では、絹産業を通じて日本とフランスが交流を深め、お互いから学び、ともに成長していった歴史を現在、そして未来へと繋げるために、シンポジウムや展覧会など、日仏交流事業を積極的に開催している。


富岡製糸場

〒370-2316 群馬県富岡市富岡1−1
Tel.0274-67-0075
■開館時間 午前9:00〜午後4:30
■ホームページ http://www.tomioka-silk.jp/tomioka-silk-mill/


取材・文 嶋田 桂子  KEIKO SHIMADA

コピーライター・ライター。文化服装学院 ファッション・エディター科卒業後、広告制作会社勤務を経てフリーランスになり、多くの広告媒体に携わる。得意分野はファッション、ビューティ、百貨店、ギフト、フード、会社案内などで、取材・インタビューも手がける。「26の物語で紡ぐ日本の絹」の執筆も担当。