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群馬の自然と人が支えた生糸  碓氷製糸株式会社の過去

“UKIYOE”という文字と日本髪の女性が描かれたレトロな商標。碓氷製糸が出荷する生糸の綛(かせ)につけられる商標は、国産生糸がヨーロッパやアメリカへ輸出され、日本の近代化を力強く牽引していた時代の名残を物語る。全国にたった2社、最後に残った器械製糸工場の歩みを振り返る。

群馬県安中市、妙義山の麓にある碓氷製糸の工場の傍らには、碓氷川が流れている。工場の多くは水を必要とするため川の傍に立地するものが多いが、製糸に関しては、煮繭や策緒、抄緒など、より多くの水を必要とする。全盛期には全国に167社あった器械製糸工場の中でも、碓氷製糸が厳しい歴史を生き抜いてきたのは、この水によるところが大きいかもしれない。「製糸にとって水は命。生糸づくりにはきれいな水が必要ですが、碓氷川の水は器械にも影響が少ないらしく、錆びることがないんですね」と語るのは、工場長の今村さん。妙義山を水源とする碓氷川の清らかな流れと製糸に適した硬度の水質。風土と周辺環境に恵まれて日本屈指の工場へと発展したこの施設は、現在では、稼働しているものとしては日本にたった2つしかない器械製糸工場となっている。

綺麗な水を支える豊かな自然

群馬県における絹産業の歴史は古く、8世紀の中頃に新田郡から貢納された絹が正倉院に残されていることから、この頃には既に特産品として生産されていたと考えられる。時代を経て18世紀には養蚕製糸業の一大産地として知られるようになり、1859年の横浜開港、1872年の官営富岡製糸場の設立を機に器械製糸が広まり、群馬県の蚕糸業が飛躍的に発展。その流れを受けて、碓氷製糸の前身も誕生した。

1916年、繭の一部である生皮芋(きびそ)・比須(びす)の精錬加工を業務とする碓氷精錬株式会社が発足。1941年には片倉碓氷精錬株式会社と改名し、副蚕糸および繭を原料とする短繊維の製造を始める。そして1959年、碓氷農業協同組合が設立され、組合製糸としての事業がスタートした。

良い糸をつくるためには、質の高い繭がなによりも大切。農業協同組合事業において、養蚕農家は競い合って蚕を飼育し、上質な繭をつくることに心血を注いだ。碓氷製糸が日本最大規模の工場へと成長し、蚕糸業全体が斜陽を迎えるなかにあっても事業を継続し、最後の砦として製糸を支えているのは、そういった先人の努力と試行錯誤があったからといえるだろう。そして組合結成から58年後の2017年、製糸業の発展に尽くした組合事業から株式会社へと移行。農業協同組合では繭の仕入れに制限があるため、自由度を増し、より良い製糸を目指しての前向きな決断であった。

碓氷製糸では、小学生から高校生まで、子どもたちを工場に招き、実際に製糸の工程を見せて、実体験として学んでもらうことを心がけている。「製糸は本にすれば何冊分にもなるけれど、実際につくっているところを目にする体験にはかなわない」と今村さんが語るように、地元の経済発展に多大な影響を及ぼした地場産業に触れることは、子どもたちにとって貴重な体験になるだろう。そして、成長した子どもたちの心に生きた歴史が残り、地域が守ってきた製糸業を未来へ繋いでいってくれることを願っている。

工場の歴史についてのお話をうかがっていて、ふと疑問が湧いた。蚕糸業が日本経済を牽引していた時代、製糸の器械を製造する企業もたくさんあったはず。それらの企業は、現在なにを製造しているのか?答えは、工場の中にあった。製糸業の最盛期、自動繰糸機のメーカーは数多くあったが、最大シェアを誇ったのは、あの日産自動車だった。歴史を辿ると、ダットサントラック1121型を製造していた1946年8月、「繊維機械の研究開始」という記述がある。碓氷製糸の工場では、20世紀半ばの日産が技術の粋を投入して開発した自動繰糸機が、今なお現役で稼働している。


碓氷製糸株式会社

〒379-0221 群馬県安中市松井田町新堀甲909番地
Tel. 027-393-1101 Fax. 027-393-1102
■開館時間 午前9:00〜午後5:00
■ホームページ www.usuiseishi.co.jp/


取材・文 嶋田 桂子  KEIKO SHIMADA

コピーライター・ライター。文化服装学院 ファッション・エディター科卒業後、広告制作会社勤務を経てフリーランスになり、多くの広告媒体に携わる。得意分野はファッション、ビューティ、百貨店、ギフト、フード、会社案内などで、取材・インタビューも手がける。「26の物語で紡ぐ日本の絹」の執筆も担当。