


”Y” 糸/Yarns かつて世界一だった日本の生糸

”X” 驚/eXcellence 門出を祝う華麗な振袖

2019年度、一般財団法人大日本蚕糸会とともに、蚕糸・絹業提携グループ全国連絡協議会は、日本における絹の歴史や文化を紹介するために、ブランドブック「26の物語で紡ぐ日本の絹」を作成しました。
takaraginu.comではWEB公開企画として、追加取材で作成した記事ととも、AからZまでのアルファベット順に更新していきます。
明治時代、日本の近代化を進めるために群馬県富岡に官営製糸場が開設されました。
安価で質の良い生糸を大量に生産するため、フランス人技師ブリュナが招聘され、本国フランスから器械を導入、同時にフランス人の工女を率いて来日しました。特に重要なのは300の釜で糸をとる300人の工女でした。当時欧州でも釜は一つの工場で100程度のものだったことを見ると、富岡の規模がどれだけのものだったかがわかります。
政府は彼女たちに良い糸をとることと同時に、故郷に戻って技術を伝える役割を期待していましたが。初めは外国人を忌み嫌う風潮が残っていたために応募者は少なく、政府は再度、募集をかけなければならなかったそうです。
努力の甲斐あって全国から士族の娘たちが集まり「郷里のため、地元に製糸場ができるのを見越し、人材の養成に応えよう」と競い合って腕を磨いたということです。工女たちはフランス人から手ほどきを受け、他の工女に指導するまでとなり、1873年のウイーン万博において富岡で製造した生糸が賞を獲得するまでとなりました。
当時の日本には休日や労働時間を定刻で定める概念はなかったので、日本の近代工場制度の労務管理の原型になったと言われています。特に富岡は官営だったため厚遇されていました。読み書き、算術、裁縫などの学びの場でもあり、余暇やリクエーション、健康のための体操も行われていました。
貴重な労働力だった工女を守るため、ひいては優良糸を生産するため人材の争奪になっていたようです。この時期から民営の製糸場が全国に増え、劣悪な労働環境から「女工哀史」のような話が生まれてきましたが、近代工場の模範とされる富岡の工女たちは技術の高さも給料も環境も他の製糸場とは雲泥の差であったのです。
[参考資料]
『絹の道拓く』世界遺産「富岡製糸場と絹産業遺産群」(上毛新聞社)